ロータスエラン
Sr2
︎スポーツカー・メーカーとして知られるロータスの創業主アンソニー・コリン・ブルース・チャップマンは1928年5月1日、北ロンドンのホーンジー駅にあるレールウェイ・ホテルを経営する家に生まれ、ロンドン大学で構造工学を学ぶようになる。飛行機に関心を寄せる一方で、中古車ブローカー業をこなしながら、ホーンジー・タウンホールで開催されたダンスイベントで、17歳のヘイゼル・パトリシア・ウィリアムズと出会い、人生の大きな転機を迎える。当初は交際に反対していたヘイゼルの両親が2人の仲を認めてからは、ロンドン北部のマスウェルヒル、アレクサンドラパーク・ロードにある自宅裏のガレージを開放し、中古の「オースティン・セブン」を改造する事を許す迄になる。シャーシを強化し剛性アップを図り、エンジンの圧縮比を高めキャブレター交換等により出力を向上させてパフォーマンスに磨きをかける。こうして1948年春に完成した「セブン」は「OX 9292」のナンバーで登録され、2人によって「ロータス」と名付けられた。「ロータス」というワードは英語で「蓮」を意味し、チャップマンの傾倒していた仏教思想上「俗世の苦しみから解放され、夢がかなう実」とされている。2人は完成した「ロータス(マーク1)」で、各地で行われるトライアルに赴き、数々の勝利を挙げることとなる。チャップマンが、ロンドン北部の元厩舎をオフィス兼ワークショップとして、自動車製造会社のロータスエンジニアリングをスタートしたのは1952年1月1日の事で、チャップマンが23歳の時だった。その頃完成した「マーク3」は、デビューレースでライバル達を周回遅れにする程の圧倒的な速さを見せ優勝。年末にはオリジナルフレームにフォードのコンポーネンツを組み合わせた初のプロダクション・モデル「マーク6」が完成すると、レースでの活躍ぶりから、数多くのオーダーが舞い込み100台以上が販売された。ロータスエンジニアリングは名声を得るとともに、チャップマンの元には様々な人々が集まり始める。そのひとりがデ・ハヴィランド・エアクラフトの若きエンジニア、マイク・コスティンだった。また、後に「エラン」を生み出すフォードのデザイン部門で働いていたロン・ヒックマンは、1956年ロンドン・ショーで、ロータス広報のアルフレッド・ウルフと知り合い、チャップマンと対面する事となる。同僚のジョン・フレイング、ピーター・ケンブリッジと共にホーンジーにチャップマンを尋ねたヒックマンは、サスペンションなどのシャーシ周りはチャップマン主導で開発が進んでいたものの、ボディは手付かずのまま置かれた新型車「エリート」を目にする。本業は会計士で、チャップマンの友人であるピーター・カーワン・テイラーが、提案したオリジナル・デザインを元に、結局、このフォードからの3人により「エリート」のボディは形作られていく事になる。「ロータス」を構成するパズルピースがひとつ、またひとつと揃い始める様に、多くの才能溢れる人物の輪が広がりをみせた時代となった。フレイングはフォードのプロジェクトで、FRPに関する基礎的な考え方を理解済みだったのに加え、ヒックマンも「アングリア」ベースのスポーツ試作モデルの作成時に、FRPの扱いを経験していた。彼等の技術が「エリート」のボディ作製に大いに役立ち、フレイングがボディの基本デザインを、インテリアはケンブリッジが担当。試作段階で60分割だった「エリート」のボディパーツは、ヒックマンにより3分割とされると、生産化に向け大規模なリファインを受けながら、コスティンによる構造計算を済ませて、1959年に発売まで漕ぎつけた。現代に至っても美しいと表現出来る「エリート」のボディは、1950年代後半の生産車としては驚異的な空力特性をもちCd値0.29を達成していた。「エリート」は、コベントリー・クライマックス社製の小型で高性能、その上軽量なFWE(フェザー・ウェイト・エリート)型1.2ℓ・SOHC4気筒エンジンを搭載し、様々な自動車メーカーが試作を行いながらも、販売まで至らなかったFRPによるシャーシ構成技術を現実のものとした。後にF1マシンの世界にいくつもの革命を起こすことになるチャップマンは、その思想を貫いて約1000台の「エリート」が製造された。結果として先進的なスポーツカーとして注目されるとともに「エリート」は「ル・マン24時間レース」でも1959年には1500ccクラス、60年〜64年迄は1300ccクラスを席巻するほどの大きな成功をおさめた。しかし生産体制の未熟さゆえの遅延、製品不良に悩まされ、一説には一台につき100ポンドの赤字を出してしまう程、高コストにより1959年よりチェシャントに移転したばかりのロータスは、深刻な経営危機に陥ってしまう。︎この危機的状況から脱するきっかけとなったのが「エリート」の後継モデルで、開発ナンバー「タイプ26」をもつ「エラン」となる。チャップマンは、この新型車に再び「エリート」と名付けようとしていたが、ロータス社内での頭文字“E”から始まる車名のコンペが行われ、ヒックマンの提案した「エラン」が採用される。本来はフランス語の「élan」が由来となる英語で「熱意」や「活力」「勢い」といった意味で使われているワードとなっている。1959年末、チャップマンが「オースティン・ヒーレー・スプライト」に対抗する為「フォード・アングリア」の997cc・直列4気筒・OHVエンジンの105E型ユニットを搭載した、安価なスポーツカーの開発をフレイングとヒックマンに指示したのが「エラン」開発のきっかけとなった。早速フレイングは「スプライトMkⅡ」に似た1/5のクレイモデルを作り上げるが、その後、突如ロータスを退社してしまい、全てはヒックマンが引き継ぐ事となる。問題となったのは、チャップマンによる「FRPモノコックのオープンモデル」という基本コンセプトだった。これに対してヒックマンは、金属製のエンジン、サスペンションのマウントをFRPモノコックに部分的に埋め込む方法を試みるが、残念ながらボディ剛性不足は明らかだった。そこで思いついたのが、各部に散らばっていた金属製マウントを繋げてひとつに纏めるというアイデアで、それが1.6mm厚の軟鋼板溶接構造の軽量バックボーン・フレームというカタチで完成する。これによりオープンボディ化が可能となるだけで無く、スポーツカーとして必要な捩り剛性を確保した上で、軽量な車両重量を達成する事まで可能とし、以降、ロータス製スポーツモデルの根幹をなす。ロン・ヒックマンは、1932年南アフリカで生まれた南アフリカ人で、幼い頃から音楽や絵の才能に恵まれ、漠然と自動車デザイナーを夢見て育った。学校を卒業すると、南アフリカの地方役人という職を得るが1954年に突如、勤めていた役所を辞め、単身船でイギリスに渡る。目的は勿論、自動車デザイナーになる為だったが、彼には資格も実績も無かった。その状況下でも運良く、英国フォードのデザイナー募集に合格したヒックマンは、チャップマンの元に辿り着き「エラン」を生み出す事に貢献する。「エラン」を作り上げたヒックマンの才能は、全て自身の独学によるものといわれている。ヒックマンは「エラン」のボディをデザインするにあたり、空力を考慮してフェンダーラインを下げる事を試みた。そこで問題となったのはヘッドランプの処理で、当初はフロントフェイスの角に斜めに固定してみるがチャップマンに却下され、エンジンの負圧を利用したリトラクタブル式が採用され、当時の英国車としてはモダンで魅力的なスタイルをもつに至る。ヒックマンがボディとシャーシで頭を悩ませいる頃、サスペンション開発は順調な進行をみせていた。チャップマンにより決定されたサスペンション形式は、他の人間が設計にタッチする事は許さなれなかった。サスペンションのテストにも最後までチャップマン自身が加わり、特徴的なラバー・ドーナツを採用するアイデアも自身によるものだった。一方、搭載される予定であったOHV式の105E型ユニットでは非力と判断したチャップマンは、BRMやコヴェントリー・クライマックスで交流のあった、ハリー・マンディを頼り、新たにツインカム・ヘッドの設計を依頼する。その過程で英国フォードから「コルティナ・ロータス」開発の打診があり、資金とエンジン・ブロックがフォードから供給される事となる。BMCミニがクーパーとコラボし成功したのを受けて、ボクスホールはブラバムと、そしてフォードはロータスと組むことを考えていた。フォード・ブロックにツインカム・ヘッドを載せたエンジンを搭載する「コルティナ・ロータス」をロータスにより生産することで、フォードは自社のスポーツ・イメージの向上を図った。ところがベース・エンジンを105E型から、5ベアリングの116E型ユニットに変更した事と、マンディ設計のツインカム・ヘッドの不備も重なりエンジンの開発が難航し、思う様なエンジン・パフォーマンスを発揮出来ずにいた。チャップマンは、以前ロータスにも籍を置いていたマイク・コスティンとともにエンジン・ビルダーの“コスワース”を立ち上げたキース・ダックワースに助けを求め、ポート形状の見直し、カムプロフィールの変更、オイルブリーザーのパイピングを追加する事により、この不調を解決。本来の戦闘力を取り戻し完成した「ロータス・ツインカム」ユニットは「エラン」以降のロータス製スポーツ・モデルにも搭載される主力ユニットとなる。1962年10月のアールズコート・ショーで発表された「エランSr1」には、先行量産型として、1498cc/100馬力のエンジンが搭載され、このモデルは22台がシャーシナンバー上では存在する。そして翌1963年5月になって、やっとウェーバー40DCOEキャブレターを2基備えた、1558cc/105馬力の「ロータス・ツインカム」エンジンを搭載した量産型「エランSr1」がライン・オフされる。「ロータス・ツインカム」と組み合わされるギア・ボックスは、フォード製3020E型4速MTで、短いストロークで小気味良い感触を持つものとなる。サスペンションはフロントにはダブルウィッシュボーン式、リアにはロアにA字アームを用いたストラット式、ブレーキは4輪ディスクを採用し、リア・ブレーキはアップライトの内側にディスクを装備する特徴的な形式が採用されていた。シンプルでタイトなインテリアは、蓋のないFRP製グローブボックスを備え、ウッド製ダッシュパネルは、中央部迄とされている。シリーズを通して最も軽量な車両重量579kg(640kg説あり)のボディをもち、メーカー公表性能値はSS1/4マイル加速16.4秒、最高速度185km/hとなり、英誌による0→60mph加速の計測値は9.0秒を記録している。1500ccエンジンを搭載する初期モデルと、レーシングモデルの「26R」を含めて「エランS1」は、900台が生産された。1964年の11月には「エランSr2」に進化し、リア・エンドまでトランクの切り欠きが届かないボディ形状は「エランSr1」と変わらないが、インストゥルメント・パネルが助手席まで拡大された事と、テールランプが「MG-ZBマグネット」用の丸型4灯式から「ボクソール・ヴィクター」用の楕円形2灯式に変更を受けている。それ以降「エランSr4」に至るまで、クーペモデルの「タイプ36」や、ホイールベースを30cm延長した「+2」モデルの「タイプ50」を加え、改良と進化を重ねながら1975年に生産を終了するまでに約18000台の「エラン」が生産された。︎「エラン」登場から始まったロータスの巻き返しは、1963年1月21年にモンテカルロでの「コルティナ・ロータス」の発表につながる。そして1958年から参戦していたF1でロータスは、1960年にミッドシップモデルの「タイプ18」を投入し、モナコGPに於いてスターリング・モスのドライブで初優勝を飾り、この1963年にチャップマンの構想から誕生したモノコック・シャーシをもつ「タイプ25」によりロータス初のコンストラクターズ・タイトルを獲得する。同時にドライブするジム・クラークも自身初のワールド・チャンピオン獲得となった。また、米国人ドライバー、ダン・ガーニーの発案で「タイプ25」にフォード製V8エンジンを搭載した「タイプ29」で1963年の「インディ500」に参戦。ダン・ガーニーが予選12位/決勝7位、ジム・クラークが予選5位/決勝2位と好成績をおさめた。この頃、フォードでは「GT40」のプロジェクトが密かに進められ、クーパー、ローラ、そしてロータスとパートナー探しを始めていた。この時ヒックマンは、チャップマンの依頼でロータスがミッドシップモデルの開発中を想わせる、ミッドシップ・レーシングモデルのスケッチを作成する。このスケッチが発端となって「エラン」の後継車「ヨーロッパ」の開発が始まる。ロータスは、1966年11月にノーフォーク州ノリッジの、ヘセル空軍基地跡に建設した巨大な本社工場に移転。更にこの頃、進められていたロータス、フォード、そしてコスワースによる稀代のレーシング・エンジン「DFV」も産声をあげようとしていた。ロータスの「エリート」から「ヨーロッパ」が誕生する1950年〜60年代は、ロンドン郊外でコリンとヘイゼルにより撒かれた「ロータス」の種子がまさに大輪の花を咲かせた黄金期となった。︎今回入荷した「エランSr2」が搭載するエンジンは、フォード116E型の鋳鉄ブロックとハリー・マンディ設計によるアルミ製ツインカムヘッドをもつ水冷・直列4気筒DOHC8バルブの「ロータス・ツインカム」となる。ボア×ストローク82.55mm×72.75mmから1558ccを得る。ウェーバー40DCOEキャブレターを2基備え、9.5の圧縮比から最高出力105馬力/5500rpm、最大トルク14.9kgm/4000rpmを発揮する。組み合わされるトランスミッションは「エランSr1」と同様、フォード製フル・シンクロの3040E型で4速MTとなっている。1〜4速でH形となるこのマニュアル・ミッションはクリック感が強く、短いストロークで小気味良く操作出来、この感触だけでスポーツカーとして評価が高まるMTとなっている。足回りは、フロントはダブルウィッシュボーン式となりスタビライザーを備え、リアはストラット式となっている。ブレーキは4輪ディスクとなり、リア・ブレーキはリア・ホイールの内側では無く、アップライトの内側にディスクを装備する特殊なタイプが採用されている。ホイール・サイズは、4輪ともに4.5J×13インチのスチールホイールにメッキの施されたセンターキャップが備わる。組み合わされるタイヤは5.20×13サイズとなっている。︎インテリアは、磨き込まれたウッドパネルがダッシュパネルに採用され、メッキのリムを備えたSMITH製のメーター類が並ぶ。オリジナルは細身で大径のステアリングが装備されるが、今回入荷した車両には、スポーティな皮巻きで小径のモモ製プロトティーポ・ステアリングが装備されている。ステアリングを通して正面左側には140mph迄の大径スピードメーターが、その右側には6500rpmからレッドゾーンとなる8000rpm迄のタコメーターがレイアウトされている。サイドサポートが張り出したホールド性の高いローバック式シートは、革張りとされバックボーンフレームが通る構造ゆえ、やや高めのセンタートンネルには、短めのシフトノブのみが存在する。サイドウィンドウは「エランSr1」から引き継がれた手動のフリクション・スライド型サイドウィンドウとなる。ソフトトップも同様で、サイドウィンドウの周囲にFRP製のフレームを立て、その左右を鉄製のロッドで結び、強度を確保した上でキャンバス製の幌を張るという複雑な構造をもつ。これは高速走行時の幌のバタつきを防いで空力特性に配慮されたものとなっている。バックボーンフレームにより、タイトなスペースのペダルルームとなることから、細身のシューズの方がドライビングには向いているかもしれない。全長×全幅×全高は3683mm×1422mm×1149mm、ホイールベースは2134mm、トレッド前1196mm、後1232mm、車両重量は680kg(720kg説あり)となっている。燃料タンク容量は42ℓで、前後重量配分は50:50となり、1966年6月までに「エランSr2」は1250台が生産されている。︎メーカー公表性能値は、0→60mph加速7.1秒、SS1/4マイル加速15.7秒、最高速度185km/hとなっている。︎現代のクルマ達の中で見る「エラン Sr2」のボディは、とても小さく見える。それでも一度でもスポーツカーに興味を持った人であれば「エラン」について、これまで語られてきた数々のストーリーや、それによる存在感からとても大きなオーラが感じられる一台となるのかもしれない。「エランSr2」までのボディに使われる、シンプルな形状のドアハンドルに手をかけて、軽いドアに驚かされつつ低くセットされたタイトなローバック式シートに腰を下ろす。ステアリングを握りながら、ドライビングポジションをきめると、そのあまりにも小柄なボディは、とても印象深いものとなる。ドライバーから少し遠く感じる、ダッシュボードのセンター助手席側に位置するイグニッション・キーを捻りスターターを回して、エンジンをスタートさせてみる。始動する「ロータス・ツインカム」のサウンドは、比較的静かな部類で、軽快で耳に心地良い。フォード製のギアボックスは、この時代の英国車の典型的な感触となり、短いストロークでかっちりとH型を描くタイプ。いかにもスポーツカーらしく、ミスシフトの言い訳は何処にも見当たらない。1速を選択してクラッチをエンゲージして動き出す瞬間にも、その軽さを意識させる。低回転域でのトルクが豊かな事と、軽いボディから容易にスピードを上げる事が出来る。ソフトなサスペンションの動きを確かめながら走っていると、いつの間にか「エラン」を走らせる事に引き込まれる様に夢中になる。全ての操作系からのフィードバックは繊細でありながらそこに含まれる情報は濃密で、その上乗り味にはドライバーを包み込むような優しさを常に感じさせてくれる。5000rpmあたりまで軽く吹け上がるエンジンは、1速、2速では一瞬で、すぐに3速迄シフトアップとなる。絶対的な軽さや、コンパクトなボディ、その成り立ちに見合った動力性能から「エラン」が自身のカラダの一部になっていく様な感覚をも感じさせる。ラック&ピニオンのステアリングは、早すぎず遅すぎず、ちょうど良いレスポンスを示し、路面のフィールも繊細に伝えてくれる。ソフトな足回りによりロールはするが、ノーズの軽さは感動する程の軽快さを感じさせる。その回頭性の良さはパワー、シャーシの絶妙なバランスによるもので、スピードのみを追求する事なく、ファン・トゥ・ドライブを展開してくれる。2速で抜けるタイトベンドでも侵入時にフロントタイヤに荷重をかけていれば、曲率に合わせた舵角をキープしたまま抜けられるというニュートラルなコーナリングを見せる。自身も「エラン」を所有する奇才ゴードン・マーレイが、スーパースポーツ史上最高の傑作と評される、自身の作品「マクラーレンF1」について「エランの様なパーフェクトなステアリングを与える事が出来なかった」と後悔のコメントを残す程、スポーツカーとしての「エラン」のステアリングの評価は高い。発表から60年以上が経過した現代に於いて、「エラン」が見せてくれる技術は過去のものであっても、ゴードン・マーレイのコメントの様に、理想を求める想いは全く古くはならない。またそれは、出来うる限りシンプルな方法で達成すべきだという事を「エラン」は現代に伝えているのかもしれない…