マセラティ 3500 GT
ツーリング
︎1914年の創業以来マセラティは、会社運営のバックボーンとなる資本やスポンサーを持たないまま、レーシングモデルの販売や創業当初から生産していたスパークプラグの販売により自社開発したレーシングモデルで多くのレースに参戦してきた。1930年代に入り、圧倒的な物量作戦でレースに臨むドイツ勢に対し、僅かの従業員で勝利を得ていたマセラティの存在は、レースを知る者達にとっては驚異でしかなかった。しかし創業者であるマセラティ兄弟の中心となっていたアルフィエーリを1932年の初めに僅か44歳で亡くし、その意志と知識を深く伝授された末弟のエルネストを中心としてビンド、エットーレとともにオフィッチーネ・アルフィエーリ・マセラティの運営は継続されていた。創業以来ファミリービジネスとしての規模を守りながら、財政的に逼迫した状況にありながらも他人に経営権を譲ることの無かったマセラティだったが、1937年に大企業のオルシ・インダストリアル・グループの傘下となってしまう。社主のアドルフォ・オルシは無一文からモデナで製鉄業で成功をおさめ、工作機械の製造や農業用機械などの製作を行う様々な会社を経営していた。マセラティ兄弟は慎重に討議を重ね、自分達が経営に纏わる煩わしさから開放され、これまで続けてきたレーシングモデルの開発に専念出来る事を重視しオルシ・グループに経営権を譲渡する方向に舵をきる。兄弟達を良く知るジャーナリストを仲介とした交渉により、マセラティ兄弟達は1947年までの10年間の技術供与とコンサルタント契約を結び特別社員として社内に留まり、オルシ・グループはマセラティに関する全ての事業を引き継ぐ事となる。マセラティのオーナーとなったアドルフォは子息のオメール・オルシを社長とし、1939年には創業の地ボローニャを離れ、マセラティをモデナのチーロ・メノッティ通りに面したオルシ・グループの敷地に移転する。エミリア=ロマーニャ州のモデナは、マセラティはじめ、スタンゲリーニ、フェラーリ、そして後にはランボルギーニ、パガーニが加わり自動車愛好家の中心地でイタリアのモーターヴァレーと呼ばれる様になる。エンジンを育むこの土地の起源は、農耕が盛んになった20世紀初頭の農耕機械とされ、画期的で合理的な機械構造に試行錯誤が繰り返される間に、携わるこの地の人々の製造技術が磨かれることで、自動車エンジンや精密部品の製造がさかんになったといわれている。レーシングモデル開発に専念出来るようになったマセラティ兄弟はレース活動を続けていたが、オルシ・グループは徐々にマセラティの重要なポストをグループの息のかかった人物で支配し始め、社内での兄弟達のポジションは失われつつあった。変わりつつある環境の中での1939年〜1940年のティーポ「8TCF」によるアメリカの「インディ500」に於ける2連勝は、マセラティの歴史に輝きをもたらすものとなった。その後、戦火が激しさを増すとマセラティ兄弟は、軍需産業に携わりながらも来るべき平和な時代とグランプリレースの復活に思いを馳せていた。1945年、第二次世界大戦が終結を迎えレースの再開される日が訪れる。しかしマセラティ兄弟はオルシ・グループとの契約が切れる1947年にマセラティをあとにしてボローニャに戻り、小型レーシングスポーツ・ビルダーとしてO.S.C.A.(Officine Specializzate Costruzione Automobili-Fratelli Maserati)を新たに創業する。マセラティ兄弟が抜けた1947年のジュネーブショーで、オルシ・グループによるマセラティは、兄弟達が残したエンジンを搭載するロードスポーツのプロトタイプ「A6-1500」を発表する。車名の「A6」はかつてのマセラティ兄弟の中心となっていた「アルフィエーリ」の頭文字と、そのエンジンの気筒数を表している。オルシが望んだ高品質なこのスポーツモデルは、F2レースにも使える様に設計された1.5ℓ・直列6気筒エンジンを搭載し、ピニンファリーナ製クーペ・ボディが架装され最高出力65馬力/4700rpmで154km/hの最高速度を標榜していた。マセラティ初のスポーツモデルとなる「A6-1500」のフロント・ホイールアーチとドアの間のフェンダー上には3つのエア・アウトレットがレイアウトされ、これは近代のマセラティ・市販モデルのデザインにも反映されていたものとなる。ヘッドランプが格納式でノッチバックデザインの2座のプロトタイプに対し、すぐに固定式ランプをフェンダーの先端に備えクォーターウィンドウが追加された市販モデルが発表される。1949年には特徴的なノッチバックのルーフラインはファストバックスタイルの4シーターに改められた「A6-1500」は、シリーズを通して60台が生産された。「A6-1500」でロードモデルの手応えをつかんだマセラティは、エンジン排気量を2000ccに拡大した「A6G-2000」をピニンファリーナによる4シーターとピエトロ・フルアによるオープンモデルを1950年のトリノショーで発表する。車名に加えられた「G」はイタリア語の「Ghisa」の頭文字で「鋳鉄」を意味し、シリンダーヘッドが鉄製である事を表す。オメール・オルシが望んだ本格的な高級スポーツモデルとしてその性能にも磨きがかけられたモデルとされた。1954年にデビューした「A6G/54」では更なる進化を見せピニンファリーナ、ザガート、フルア、アレマーノによる魅力的なボディのクーペ、スパイダーモデルが少量生産された。1947年〜1957年迄の「A6」シリーズは戦争直後の物不足に起因する不況の中で139台という生産台数に留まり、桁違いに利益をもたらす工作機械製造に比べるとマセラティの屋台骨を支えるまでには至らず、量産することでコストを抑え利益を見込める市販ロードモデルの開発が急務とされていた。︎マセラティ兄弟が去った後、オルシの指示によりエルネストの下で設計を担当していたアルベルト・マッシミーノをチーフ・エンジニアとしてマセラティはレース活動を続けていた。マセラティはイタリア国内はもとよりヨーロッパ全土を舞台にレース活動を続けていたが、客観的な企業規模としては未だ小さな存在でしか無かった。1950年から始まった現代に続くF-1世界選手権は、年間ドライバーズタイトルを懸けて、開始当初は自然吸気4.5ℓエンジン(過給エンジンは1500cc迄)で競われ、マセラティは兄弟達が残していった1.5ℓ・4気筒エンジンに2ステージ・スーパーチャージャーを装備した「4CLT」をマッシミーノが引き継いで参戦し、8気筒のアルファロメオや12気筒のフェラーリとの厳しい闘いを続けていた。1950年にはスクーデリア・フェラーリからエンジニアのヴィットリオ・ベレンターニが加わり、1952年にはアルファロメオでの「ティーポ158/159アルフェッタ」やフェラーリ初の12気筒エンジンの設計で知られるジョアッキーノ・コロンボが採用され、F-1のレギュレーションが1954年から自然吸気2.5ℓエンジン(過給エンジンは750cc)に変更されることが公表されると、この二人により新たなマセラティのグランプリマシンの開発が始まる。設計図が完成しプロトタイプの制作が進められる中で、コロンボはマセラティを去りモールスハイムのブガッティへと移籍。創作意欲溢れるコロンボは、そこで次なる新たなアイデアを実現すべくブガッティ最後のグランプリカー「タイプ251」の設計を手がける事となる。入れ替わる様にマセラティに採用され新たにチーフエンジニアの座についたのはイノチェンティでモーターサイクルのエンジン設計をしていた弱冠30歳のジュリオ・アルフィエーリだった。1953年に完成した「250F」は、アルファロメオの「ティーポ158/159アルフェッタ」と並んで、このフロントエンジン時代のF-1を代表する名作とよばれるモデルとなる。ボア×ストローク84.0mm×75.0mmから2493ccの排気量を得るギアトレイン式DOHC2バルブのアルミ製のヘッド、ブロックからなるエンジンは、ドライサンプ式で気筒あたりツインプラグを装備し、ウェーバー45DCO3ツインチョークキャブレターを3連装した極めてオーソドックスな内容をもつ。ツインプラグによる点火方式は1952年のシングルシーター・レーシングモデル「A6GCM」から導入されマセラティ製6気筒エンジンの特徴で、点火効率を確保し良好な燃焼を得る為のものとなるが、創業時のマセラティ兄弟によるスパークプラグの生産によるノウハウも活かされていたとも考えられる。12.0の高い圧縮比により当初240馬力/7200rpmであったが後に270馬力/8000rpmまで出力アップされるエンジンは、トランスアクスル方式でギアボックスと分けて搭載されている。足回りにはフロントにダブルウィシュボーン式、リアにドディオンアクスルが採用され、ボラーニ製ワイヤースポークをもつリアタイヤを駆動している。ブレーキは大径のアルミ製ドラム式が装備され、ドライバビリティに優れた操縦性によりアルファロメオやフェラーリ、メルセデスベンツと対等に渡り合いレースシーンを彩った。1950年代のレースシーンでは、ドライバーによる巧みなドリフトコントロールによるハイスピードコーナリングが見せ場となり、フロントエンジンのマシンならではのコーナリングフォームと、操縦するドライバーの華麗なステアリング操作が披露された最後の時代となる。1954年〜1958年の間に8勝を挙げ8つのポールポジションを獲得した「250F」は、1957年には4勝を挙げた46歳のファン・マヌエル・ファンジオを5度目のドライバーズチャンピオンに輝かせる大いなる活躍をみせている。「250F」は、第一線で活躍していた期間中に32台が量産され、マセラティの伝統に従いその一部は市販されていた。購入者の中には英国で歯科医を開業していた父に購入資金を借りて「250F」を購入し1954年シーズンをプライベーターとしてグランプリ参戦を目指すスターリング・モスもいた。この年モスは「250F」でグランプリ参戦を果たしベルギーGPで3位表彰台を獲得するなどの活躍を見せ、翌年のメルセデスベンツのワークスチーム入りを獲得している。︎「250F」が活躍した1950年代後半になると戦後の復興が始まり、イタリア経済も活性化の兆候を見せ交通網の中心となるアウトストラーダがIRI(産業復興公社)を介して国内に枝葉を広げ始めた。イタリアで生まれた「GT=グランツーリスモ」という自動車のカテゴリーは更なる活況を呈し、好景気を背景として誕生した裕福な顧客のステイタス・シンボルとなりつつあった。マセラティは華やかなモータースポーツシーンでの多くの活躍や栄誉の為に散財し、1950年代に入ってから徐々に会社の経営は苦境に陥り始めていた。社主オメール・オルシは、1957年をもってワークス体制によるモータースポーツへの参戦の中止を決断し、本格的にGTカーメーカーへと転身する事を表明するかのように、この年のジュネーブショーでグランツーリスモを発表する。そのモデルが今回入荷した「3500GT」となる。ショーで展示された2台のプロトタイプは、トゥーリング製のクーペモデルとアレマーノ製のオープンモデルで、顧客の反応を見ながらどちらかのモデルを量産する事を考えていた社主のオルシは、このモデルを開発するにあたりオリジナリティ溢れるボディデザイン、強い個性、造りの良さ、高い安全性を兼ね備えている事をリクエストしている。それに適った上で、ショー会場での反応からトゥーリングが提示したクーペモデルが選択される事となる。ボディデザインと製作を担当したカロッツェリア・トゥーリングを率いるカルロ・フェリーチェ・ビアンキ・アンデルローニは、マセラティのレーシングモデルのイメージを強調するようにフロントグリルの幅を絞る手直しを加え、あとはプロトタイプのデザインのまま量産モデルとした。トゥーリングによるボディは、同社の特許技術である“スーパーレッジェーラ(イタリア語で超軽量という意味)”という工法により作られたアルミ製で「3500GT」の大きな特徴となっている。シャーシは「A6」シリーズ以降のコンペティション・マセラティモデルと同様、ミラノのフレーム製作のスペシャリスト、ジルベルト・コロンボによる「GILCO=ジルコ」製が採用されている。シャーシの中心部を前後方向にスチール製の2本の縦通材を走らせ、太い3本のサイドメンバーを組み合わせラダー型としたものをベースとし、そこに立体的に小径の鋼管フレームを鳥籠の様に溶接して組み上げたものを基本としている。このフレームとアルミ製のボディパネルの間にフェルトを挟んで浮かせた状態で固定される薄いアルミ製のボディパネルには応力はかからず電蝕も免れる工夫が施される。溶接の難しいアルミパネルは、周到かつ巧妙に組み合わされ、溶接ポイントを極力減らすことで完成され高度な技術が要求されるものとなる。搭載されるエンジンは、ファンジオが1957年にドライバーズタイトルを獲得したグランプリマシン「250F」に搭載されていたエンジンをベースに、ヴィットリオ・ベレンターニによるスポーツカーレース用の傑作「300S」を経て少数が製作された「350S」用のエンジンを、ジュリオ・アルフィエーリが量産型として仕立てなおしたものとなっている。サスペンションや駆動系のパーツは、多くの定評ある外国製品が用いられ開発コストを抑えながら量産するという製造会社を複数経営してきたオルシによる意図が活かされ開発がすすめられた。それでも「A6」シリーズから引き継がれる高品質なGT造りには一点の曇りも見られず、高級車造りのツボを押さえたこだわりを感じさせる仕上がりを見せている。フロントフェンダーの峰やヘッドライト、フロントグリル周辺や屋根から下るBピラーを迎えるあたりから描かれるリアフェンダーの伸びやかなラインには同じスーパー・レッジェーラ工法による「アストンマーティンDB4」にも似た処理が見受けられる。アストンマーティンの男性的なフォルムに比べ、相対的にコックピットが小さく見える柔らかな水平基調のウェストラインが特徴のエレガントで洗練された対照的なイメージをもつ。インテリアのダッシュボードが低めに設定され開放的に感じられるところもイタリア的で、ラグジュアリー・クーペとして、またマセラティならではの現代に続くGTカーとしての礎を築いたモデルとなる。発表の1年後にはジョバンニ・ミケロッティによるボディデザインをもつ2シーター・オープンモデルが追加発表され、100mm短いホイールベースをもつシャーシが用いてカロッツェリア・ヴィニャーレにより製作されたボディを架装して242台が生産されている。1961年にはウェーバー・キャブレターをルーカス製のメカニカルインジェクションに変更して235馬力を発揮するエンジンが搭載された「3500GTI」が発表されている。“ティーポ101”の型式をもつ「3500GT」は「フェラーリ250GT」と並び戦後復興の好景気に沸くイタリアを代表するこの時代の高級GTであり、マセラティの窮地を救った重要なモデルとなっている。︎「3500GT」が搭載するエンジンは“ティーポ53”の型式をもつレーシングスポーツ「350S」と同じ、ボア×ストローク84.0mm×100.0mmから3485ccの排気量を得る。水冷直列6気筒DOHC12バルブのこのエンジンは、シリンダーヘッドとブロックともにアルミ製で気筒あたり2つのプラグを装備し、クランクシャフトのベアリングが7つとなるのも共通となる。カムシャフトの駆動はギヤ・トレイン式から、より静かな3連のチェーン・ドライブ式に改めてられ、バルブクリアランスを調整する為のシムはスクリュータイプから一般的なバケットタイプに変更されている。ピストンはこの時代のフェラーリと同様にボルゴ製とされ、エンジンには鋳鉄ライナーが嵌入されている。圧縮比は8.5とされツイン・イグニッションシステムはマレリ製となる。ウェーバー42DCOE8ツインチョークキャブレターを3基装備し最高出力220馬力/5500rpmと最大トルク35.0kgm/3500rpmを発揮する。組み合わされるトランスミッションはドイツのZF製4段フルシンクロのマニュアルトランスミッションとされ、1960年型からはオプションでZF製5段MTが選択出来る様になる。クラッチはボーグ&ベック製で、7種類のギア比が設定されていたリア・ディファレンシャルはソールズベリー製が採用されLSDはオプションとされた。︎足回りは、ほぼレーシングモデルの「300S」と同様にフロント・ダブルウィッシュボーン式で上下Aアームの間に同軸にコイル/ダンパーユニットが配されている。リアは、左右2本のリーフでアクスルを吊るリジットアクスルが採用されている。マセラティはその後の「セブリング」「ミストラル」にもこのリアのサスペンション型式を継承し、1966年の「ギブリ」のリア・サスペンションにもリジットアクスルが採用されている。初期の「3500GT」ではダンパーは英国のアルフォード・アンド・アルダー製が採用され、後にガーリングもしくはコニ製に変更されている。ブレーキは、前後ともにガーリング製のドラム式とされていたが、1960年型からフロントにディスクブレーキが装備され、油圧式サーボを備えている。ホイールはボラーニ製の16インチ・ホイールを装備し、センターには「Maserati」のロゴの入った美しいメッキ製ホイールキャップが装備される。この時代のホイールはエレクトロンというマグネシウムによるワンピース構造のカンパニョーロが有名だが、メッキワイヤーホイールで知られるボラーニ製となるこのホイールは、ディスク部分がスチール製でアルミ製のリムを合体したマルチピース構造となっている。組み合わされるタイヤサイズは4輪ともに6.50×16サイズとなるが、今回入荷した車両には185R16サイズのミシュランが装備されている。︎インテリアは、細身で大径のステアリングは後期モデルのものとなり、後継車となる「セブリング」のシリーズ1と共通デザインのものが装備されている。ボディと同色に塗られたダッシュボードの上面には黒の革が張られる事でフロントウィンドウへの反射や映り込みを防いでいる。スピードとタコの大径メーターを含む、7つのクロームのリングをもつメーター類はイェーガー製が採用され、助手席前方には特徴的なデザインをもつアシストグリップが装備される。このアシストグリップとダッシュボードの分岐点となるダッシュ上には、飛び出した形状でシガーソケットが置かれている。床から短めに突き出したステアリングからやや遠めとなるシフトレバーと、ステアリングホイール中央には伝統のトライデントのエンブレムがレイアウトされている。かけ心地の良いシートにはヘッドレストの装備は無く、プラス2と割り切るには広めのスペースが確保され、しっかりとした形状をもつリアシートが装備されている。比較的高めのシートポジションとサイドまで回り込んだフロントウィンドウにより、前方の視界はとても開けたものとなっている。全長×全幅×全高は4780mm×1760mm×1300mmとなり、ホイールベースは2600mm、トレッド前1390mm、後1360mm、車両重量は1300kgとなる。燃料タンク容量は75ℓで、新車時販売価格は、1963年1月の第4回外車ショーに出展されていた車両に提示されていた価格は810万円だった。同会場に展示されていたフォルクスワーゲンは95万円、メルセデスベンツ220Sが295万円という価格が掲げられた時代だった。1957年〜1964年まで生産された「3500GT」の生産台数は「3500GTI」と合わせて1978台となっている。︎メーカー公表性能値は、0→100km/h加速8.4秒、0→1km加速26秒、最高速度230km/hとなる。アメリカのスポーツカー・イラストレーテッド誌による新車販売当時にキャブレター仕様のエンジンと4MTを搭載した「3500GT」の実測テストが行われ、SS1/4マイル加速16.8秒、最高速度は209.17km/hが記録されている。「3500GT」は、マセラティの100年を超える歴史の中で、大きな転換点に立つ重要なモデルとなる。この2+2クーペ無くして現代まで続くトライデントの歴史は語ることが出来ない。フェラーリより長いレースでの歴史をもち、通算5回のワールドチャンピオンを獲得したファン・マヌエル・ファンジオが最後のタイトルを「250F」で獲得した年に発表された「3500GT」は、オルシがマセラティを傘下におさめなければ誕生しなかったモデルとなる。造りの良さやエレガントなスタイリング、佇まいの良さは同時代の大型GTモデルの中でも光る存在となっている。長めのドアを開き乗り込んでみると、インテリアは控えめな中にもメッキパーツがアクセントとなり居心地の良い空間に仕立てられている。パワーアシストを持たない細身の大径ステアリングが1950年代に設計されたことを物語るが、しっかりとしたシフトレバーの感触やペダル類のタッチは剛性感に富んだモダンな印象を受ける。キーを捻りクランキングを経て3.5ℓ直列6気筒DOHCユニットを目覚めさせると、エキゾーストパイプからの野太い咆哮が空気を震わせ、エンジンは魅力的なサウンドを響かせ安定したアイドリングを続ける。軽くアクセルを煽ると、その動きを見逃さずに反応を返してくることでグランプリマシン直系のパワーユニットだという事を再認識させられる。少し重めのクラッチを踏んで若干遠めとなるギアレバーを1速に送り、左足から少しずつ力を抜いていくと、僅かなスロットルワークで走り出すことが可能となる。エンジンは低い回転域から神経質なそぶりを見せることなくドライバーの意志と操作に忠実に反応を示し、充実したトルクにより1.3トンのボディを余裕をもって加速させてゆく。同世代のフェラーリの様に高回転域のピークを目指して加速力が増すのではなく、ロングストローク・ユニットならではの潤沢なトルクがリジットアクスルの後輪に伝わり、それがボディを気持ち良く押し出してくれる。古典的なキャブレター・ユニットを装備するエンジンは、マラネロ製V型12気筒とは異なるエンジンサウンドの中に、ファンジオがドライブしたグランプリマシンのサウンドを重ねる様に、レースで培った技術が反映され半世紀を優に超えて存在し続けてきた歴史を垣間見せてくれる。スペックシート上の最高出力発生回転数より低い5000rpmにレッドラインが引かれるタコメーターとなるが、高回転域に至ってもノイズやバイブレーションが高まる事なく、直列6気筒らしいバランスの良さを保ちながら鋭い吹け上がりを見せる。ワインディングロードではややスローなウォーム&ローラー式のステアリングによりパワーを持て余し気味となるが、そのコーナリングフォームはロールは前後ともバランス良く抑えられグリップレベルの高いものとなる。高速クルージングでは1950年代の設計を忘れさせる安定感を発揮し、高速に乗り入れた「3500GT」は最良の一面をドライバーに見せ、抜群の直進性を感じさせながらステアリングに軽く手を添えているだけで矢の様に進む。長距離を疲れることなく移動する事が可能で、ワインディングロードではスローに感じられたステアリングも高速走行では正確なフィールを返し、GTとしての高い資質を際立出せている。長めのホイールベースとサスペンションのセッティング、シートのクッションがもたらす乗り心地も快適なものとなりハーシュネスを排除した、ひたすらフラットに感じさせるGTらしい落ち着きを見せる。オルシ・グループにとって厳しい時期に社運を賭けて開発された「3500GT」と、戦後復興によるイタリアの好景気を背景とながらこのGTモデルの販売によりもちなおしたマセラティは、ワークスレーシングチームは解散したが、プライベートユーザー向けに再びコンペティションモデルの開発を始める。チーフエンジニアのジュリオ・アルフィエーリにより開発された直径10〜15mmのクロモリ鋼管を無数に組み合わせた僅か30kgの超軽量フレームをもつ“バードケージ=鳥籠”の愛称でよばれる「ティーポ60/61」の活躍によりマセラティはレースシーンに復活を遂げる。ロードカーのビジネスに於いてもマセラティは「セブリング」「ミストラル」、そして4ドアセダン「クワトロポルテ」を1963年のトリノショーで発表する黄金期を迎える。このマセラティの繁栄は、全ては「3500GT」の成功がもたらしたものと言えるだろう。この芳醇な時代のマセラティを現代に再現したかったのが、前世紀末にエンツォ・フェラーリ亡き後を継ぎフェラーリを率いたボローニャ出身のルカ・ディ・モンテゼーモロであり、同時期フィアットのトップの座に君臨したカーガイ、ジョバンニ・アニエッリだった。フェラーリ傘下にマセラティを位置付け、この深みのある「GT」としてのマセラティの再興を目指し「3200GT」を開発し発表、フェラーリ製エンジンを搭載した「クーペ/スパイダー」を経てピニンファリーナによる「クワトロポルテ」「グラントゥーリスモ」人気モデルが発表される。多くの成功をおさめたこの両名を本気にさせる程、黄金期のマセラティは魅力溢れる存在だったという事になる。マセラティは牽引する人や会社は変わっても、そのノーズに輝くトライデントのエンブレムは創業時から引き継がれたものとなる。このエンブレムが掲げられたモデルは、常にそのエレガントなボディスタイルと高い性能をもって多くのドライバー達を魅了し続ける存在となり、それこそがマセラティが現代まで継続されている理由となっているのかもしれない…